築地教会の歴史

関白秀吉によって発布されたキリスト教禁令は、徳川家康によりさらに強化され、三代将軍家光によって、鎖国令へと発展しました。日本の教会にとり、長く厳しい時代が訪れました。300年の間、多くのキリシタンが信仰の故に専い血を流し、故国を追われました。

しかし遂に自由の日が来ました。1853年アメリカのペリーが来航し1858年日米修好通商条約が結ばれると、オランダ・ロシア・イギリス・フランスもこれに続きました。外国人が日本に居留することにより、同時にキリスト教が再び日本の地に宣教の根を下すことになりました。

1862年、開国以来最初の教会が横浜に建てられました。東京は種々の理由で開市が遅れ、1869年になってようやく外国人の居留を受け入れました。現在の明石町あたりがそのためにあてられたのです。横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋ごろ東京に入り、宣教を始めました。

開国されたとはいえ、まだキリシタン禁制の高札が揚げられていたことを思えば、2人の宣教師の情熱が伝わってきます。このカトリックの宣教は、ロシア正教や聖公会の伝道よりいち早く始められているのです。

神父たちは稲荷橋に商家を借り受け、仮の教会としました。当時教会をおとずれる人は特に、地方出身の諸藩の留学生など、若者が多かったようです。1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、70人余りの学生を収容するまでになりました。

宣教の発展のために、借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会を建てることをマラン神父は決意しました。1874年11月22日、聖霊降臨後最後の日曜日に、聖ヨゼフを保護者として新聖堂は祝別されました。築地の宣教が始まって3年後のことです。

翌年には横浜にすでに女子のための童貞学校を開設していたサン・モール会の修道女数人を迎えました。小学校、孤児院、教会付軸の施設の運営を通して宣教はますます力強い歩みを始めました。1877年、築地教会に司教座がおかれ、オズーフ司教か着座し宣教の拠点が囲められました。

1920年、東京大司教館が築地から関口教会構内に移転することによって、次の新しい時代を迎えることになります。(教区ニュース76号(1990年9月発行)より 

カトリック築地教会は東京で最古のカトリック教会です。
また当教会聖堂は1999年(平成11年)4月東京都景観条例により歴史的建造物に選定されました。さらに2001年3月中央区からも文化財に選定されました。