聖堂

1871年(明治4年)フランス人の宣教師が来日し語学塾を開きました。
当時は、江戸の街角にはあちこちにキリスト教禁制の高札が建てられて
いましたから、公の宣教は出来ない状況でした。
明治6年に禁教令が解かれて、高札が撤去されると共に宣教が開始され、
1878年(明治11年)現在地に、煉瓦作りの聖堂が建てられました。


明治二十年代の築地教会聖堂内部とその外観。

伝道所や神学校・小学校に使われたもの。
これと向かい合って、聖堂左側に、司教館があった。


旧聖堂は、北緯代牧区の司教座聖堂としてオゾーフ司教により建てられ、
明治十一年(1878年)八月十五日、南緯代牧である
プチジャン司教の司式により献堂されました。
明治二十四年(1891年)、日本の教会は4教区(長崎、大阪、東京、函館)
に分けられ、東京は大司教区となり、オゾーフ司教が初代東京教区長として、
大司教に任命されました。その後、司教座が関口教会に移るまでの29年間、
第四代のレイ大司教の時まで東京大司教区の中心でした。



大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災で、旧聖堂は破壊してしまう。
この時、ローマ教皇使節の仮使節館として使用していた旧大司教館をはじめ、
教会付属の建物はすべて焼け落ち、築地教会はガレキの山となる。

     
現在の聖路加病院の方向
からみた旧聖堂の焼け跡。
『汝はペトロなり』と題して
“声”誌に紹介された写真。
左は現在も旧聖堂の遺品として
残っている聖ペトロ像、
右は幼な子を抱いた聖ヨゼフ像。
これらの像は旧聖堂大祭壇
後陣に並べられた。



大震災から三年たった大正十五年(1926年)十一月、神聖堂が起工し、
翌昭和二年四月十日に竣工、レイ大司教により献堂されました。
新聖堂はレイ大司教の希望によりギリシャ建築パルテノン型 の
木造モルタルです。当初、中央の信徒席は畳敷きでした。

     



昭和6年(1931年)、主任司祭はジロジアス神父からセスラン神父へと
替わり、さらに昭和十六年(1941年)には柴田神父へと引き継がれる。
この間、長崎巡礼、聖人晶慶会の発足、日本殉教者記念碑の建立、
などがおこなわれる。そして、太平洋戦争を迎えるが、明石町一帯は
聖路加病院があったため空襲をまぬがれ、
教会は戦災に会わずにすみました。


昭和三十五年(1960年)、柴田神父にかわって水谷九郎神父が来任する。
昭和四十年に司祭館が新築、翌年、信徒集会所が新築。
平成三十一年1月から聖堂の耐震化工事を始め、
令和元年(同年)十二月一日から再開しました。

2019年11月新しい聖堂が生まれました。耐震化工事も終わり、内部はすっかりきれいに整えられました。両側にはキリストの道行の陶器パネルが配置され神父様の息遣いが聞こえる素晴らしい聖堂に生まれ変わりました。

まだご覧になってない方はぜひお立ち寄り頂くことをお勧めします。